月下の王 part2
第一夜 追憶一
僕は小さい時から人付き合いが得意ではなかった。
人と一緒にいるのが苦手だったわけではない。
ただ、何となく居心地が悪かったのだ。
ただそれだけのことだったけど、まだ思考が大人になりきっていない思春期の子供にとっては大きな障害となる。
些細な出来事でも人はすれ違い、反発しあい、最後には離れていってしまう。
それが僕には耐えられなかったのだ。
人との繋がりが愛おしいからこそ、その繋がりが絶たれるのが怖くて弱気になってしまう。
自分が傷つくのが、他人を傷つけるのが恐ろしいから、人と関わるのに戸惑いを感じてしまう。
『友達』は中学のときもたくさんいた。
でも、それだけ。
『親友』と呼べる者はいないに等しかった。
『友達』と『親友』との差がその『繋がり』の大きさだったとしたら、確かに僕に親友はいなかった。心から許しあっている、本当の意味での友人に僕は出会っていなかった。
それも当然だ。
人と関わろうとするときつい警戒してしまう僕相手に、心を許してくれる者はいないだろう。
ただそれだけの話だった。
人との繋がりが欲しい。でも、繋がりを作るのが怖い。
そんな矛盾を心の内に隠しながら、僕は高校へと入学した。
僕が選んだのは、どこにでもありそうな無難すぎるほど特徴のない私立校。
希望や期待といった初々しい心を僕は持っていなかった。
冷めている、と言われてしまえばそれまでだろう。
何の夢も持たず、半分諦めていた僕にとって高校など通過するだけのトンネルと同じだ。ただ周りに流されて、たいした価値観も見出せずに進学した僕は空っぽだった。
僕は何をしたいがために高校に進学したのだろうか?
内心は空虚で、どんな言葉もスカスカと素通りしてしまいそうだ。高校という通過点に何の意味も見当たらず、僕は少し悲しかった。平凡な日常を予想しつつ、一つでも楽しい事があったらいいと淡いキボウを抱いてしまう。青春なんて求めないが、この三年間を充実させたいとキタイに胸を膨らませる。
そんな妄想を抱えて、僕は教室へと足を踏み入れた。
言わずもがな、知らない人ばっかりだ。
一から交友関係を築きあげるのは億劫だった。
しかし、新しい環境に入ってまず始めにすることは友達作りだろう。
決まりきったことをあえて考えてから僕は、とりあえず手身近なところからあたってみることにした。友達を作るのはさして難しくないのだ。第一印象がよければ問題ない。その後親しくしようが何しようがその人の勝手だ。前向きなのか後ろ向きなのかよく分からない考えの下、僕は自分の席の後ろに眼をやった。
「――――」
とたん僕は言葉を失った。
それは、物静かに読書をしていた彼女の姿があまりにも綺麗だったからだろう。
教室という孤立した空間にひっそりと咲きほこっている一輪の花。
目立たないまでも、僕を釘付けにする独特の雰囲気。
見るからに美人なのだが、数多の男たちを虜にさせる麻薬的な華麗さとはどこか違った。
長い黒髪をカチューシャで軽く止め、椅子の背もたれから流している。
整った顔立ちからは化粧の色が見えない。
化粧に興味がないわけではないだろう。
――する必要がないのだ。
すでに完成された作品に下手に手入れすると全体の完成度が崩れてしまうように、女性にしては凛々しい表情の彼女にとって化粧は不要の代物だった。
「ん――?」
僕の視線に気づいたのか、読書中だった彼女は本を閉じると僕を見つめ返した。
「あ――ごめん。読書の邪魔だった?」
僕はうろたえた。女の子をまじまじと見ていた気恥ずかしさもあいまって、僕の顔はリンゴのように赤かっただろう。それだけ、僕が彼女に見とれていたわけだが。
「いや――」
そんな僕が面白かったのか、彼女は穏やかな笑みを浮かべると僕の問いを否定した。
「そんなことはないよ。私にとっての読書は教養を得るためのものではなくて、ただの暇つぶしの娯楽だからね。無理に時間を設ける必要はないし、むしろ君のように話しかけてくれる人がいると助かる。――どうも私は、昔から人に話しかけるのが得意ではないらしい」
どこか男っぽい口調だったが、僕が気になったのはそのことじゃない。
―――この人は、どこか僕に似ている。
そう、確信した。
容姿や性格の話ではない。『人』の根底として、僕と彼女は似ていたのだ。
「でも、本って元々そのためにあるものじゃないかな? 教科書だって専門書だって、知識を得るために存在しているようなものだし」
その確信を表に出さないためか、僕はどうでもいいようなことに反発した。
僕の反論に気を悪くしたようでもない彼女は、むしろ優しい表情で『そうだね――』と始めた。
「確かに、本から得られるものは大きい。世界中にある本を無限に読み続けることができるならば、人はそこから多大な知識を得られるだろう。――でもね、それまでなんだ。いくら知識を得ようが、そこから先に発展しなければ知識としての価値がない。知識はね、収集するものではなくて、活用するものなんだ」
そう話す彼女は僕の眼を見ているのに、どこか遠くを見つめているようだった。
「ふうん」
話半分に聞いていた僕は、このときになって重大なことに気がついた。
僕はまだ、彼女の名前を知らないじゃないか。
ごそごそとプリントにされた名簿を取り出すと、出席番号順に配置された席と照らし合わせて彼女の名前を探した。
「黒宮の後で――斉藤のまえだから……えーと……」
「彩川だよ。彩川那生(さいかわ なお)。そういう君は、黒宮……なんて言うんだい?」
「…………」
僕は自分の名前があまり好きではなかった。親からもらった名前なので、あからさまに嫌いというわけではないが、……なんだか、こういう他人に自分の名前を教える時がものすごく恥ずかしいのだ。
「……ハルって読むんだ。変わっているだろう?」
「そうだね。私もこういう当て字を見るのは生まれて初めてだ。『春』と同じ響きで、葉っぱが流れると書くのか。――うん。いい名前だね」
「――!」
こっちとしても、名前を褒められたのは生まれて初めてだった。
「そうかな? 僕としては恥ずかしいだけだけど……。よく名前と当てはめて、『お前は流されやすい』って言われるけど」
そんなことはない――、と彼女は言う。
「名前は、その人にとって重要な『証明』なんだ。何も恥じることはない。――それに、不思議な響きがあっていい名じゃないか。『流れる』と書くと水をイメージするが、これはそれと違う気がする。水の流れ、ではなく風の流れ。といった感じかな」
何が面白いのか、彼女はそう言うと納得したように何度も頷いた。
「どうしたの?」
「いや、ただの独り言だよ。…………ハル、か。確かに、不思議な余韻を持つ名だ。もしかしたら、私と同じで『素質』があるのかもしれないな。『―――』としての……」
本当に独り言だったので、最後のほうは聞き取れなかった。急に真剣な表情になったことからも、何か大切なことを言っているのだと分かる。しかしこのときの僕には、それが大切なことだとは気がつかなかった。
しばらく考え事をしていた彼女は、思い出したように顔を上げるとおもむろに手を出してきた。
「――?」
僕が怪訝な表情をしていると、彼女は諭すように言った。
「握手だよ。お互い自己紹介をするんだ。これぐらい当たり前だろう?」
いまどき高校生が自己紹介のときに握手をするだろうか? と思いつつ、手を出さないのも失礼かと思い、僕も手を出した。
「あらためてよろしく。私は彩川那生。どうせだから、那生と呼んでくれ。私も君のことを葉流と呼ぶことにするよ。――どうやら、私は君のことを気に入ったようだ」
「え――?」
心が揺れた。気に入った、なんて予想もしてなかった言葉だ。初対面でいきなり気に入られるなんてそうそうない。名前を教えただけなのに、彼女は僕のことを受け入れたというのか?
ありえない……。
「おや? そう驚かないでくれよ。今言ったことは本心から出てきた言葉で、他意はないからね」
彼女の微笑みは、汚れを知らないかのように澄んだものだった。
彼女は僕のことを『気に入った』と言った。
僕には理解のできない言葉。
けど、彼女は本当のことを言っている。
数回しか交わされていない会話で、彼女は僕を受け入れたのだ。
理由は分からない。
この場合、理由はあまり関係ないのかもしれない。
彼女は僕のことを受け入れた。
なら、僕も彼女のことを受け入れようじゃないか。
損得勘定抜きの、彼女の微笑みのように。
僕は彼女の手をとる。
「ああ、よろしく。僕は黒宮葉流。那生、って呼んでいいんだろ?」
僕も微笑み返す。
人前で笑顔を作ったことなんてあまりなかったけど。
この時は、自然に笑えたような気がする。
「もちろん」
こうして僕らは出会った。
今年の春の出来事。
十月の終わり、彼女こと彩川那生が失踪する半年前の出来事だった。
……Next 第一夜 其の二 舞う月
僕は小さい時から人付き合いが得意ではなかった。
人と一緒にいるのが苦手だったわけではない。
ただ、何となく居心地が悪かったのだ。
ただそれだけのことだったけど、まだ思考が大人になりきっていない思春期の子供にとっては大きな障害となる。
些細な出来事でも人はすれ違い、反発しあい、最後には離れていってしまう。
それが僕には耐えられなかったのだ。
人との繋がりが愛おしいからこそ、その繋がりが絶たれるのが怖くて弱気になってしまう。
自分が傷つくのが、他人を傷つけるのが恐ろしいから、人と関わるのに戸惑いを感じてしまう。
『友達』は中学のときもたくさんいた。
でも、それだけ。
『親友』と呼べる者はいないに等しかった。
『友達』と『親友』との差がその『繋がり』の大きさだったとしたら、確かに僕に親友はいなかった。心から許しあっている、本当の意味での友人に僕は出会っていなかった。
それも当然だ。
人と関わろうとするときつい警戒してしまう僕相手に、心を許してくれる者はいないだろう。
ただそれだけの話だった。
人との繋がりが欲しい。でも、繋がりを作るのが怖い。
そんな矛盾を心の内に隠しながら、僕は高校へと入学した。
僕が選んだのは、どこにでもありそうな無難すぎるほど特徴のない私立校。
希望や期待といった初々しい心を僕は持っていなかった。
冷めている、と言われてしまえばそれまでだろう。
何の夢も持たず、半分諦めていた僕にとって高校など通過するだけのトンネルと同じだ。ただ周りに流されて、たいした価値観も見出せずに進学した僕は空っぽだった。
僕は何をしたいがために高校に進学したのだろうか?
内心は空虚で、どんな言葉もスカスカと素通りしてしまいそうだ。高校という通過点に何の意味も見当たらず、僕は少し悲しかった。平凡な日常を予想しつつ、一つでも楽しい事があったらいいと淡いキボウを抱いてしまう。青春なんて求めないが、この三年間を充実させたいとキタイに胸を膨らませる。
そんな妄想を抱えて、僕は教室へと足を踏み入れた。
言わずもがな、知らない人ばっかりだ。
一から交友関係を築きあげるのは億劫だった。
しかし、新しい環境に入ってまず始めにすることは友達作りだろう。
決まりきったことをあえて考えてから僕は、とりあえず手身近なところからあたってみることにした。友達を作るのはさして難しくないのだ。第一印象がよければ問題ない。その後親しくしようが何しようがその人の勝手だ。前向きなのか後ろ向きなのかよく分からない考えの下、僕は自分の席の後ろに眼をやった。
「――――」
とたん僕は言葉を失った。
それは、物静かに読書をしていた彼女の姿があまりにも綺麗だったからだろう。
教室という孤立した空間にひっそりと咲きほこっている一輪の花。
目立たないまでも、僕を釘付けにする独特の雰囲気。
見るからに美人なのだが、数多の男たちを虜にさせる麻薬的な華麗さとはどこか違った。
長い黒髪をカチューシャで軽く止め、椅子の背もたれから流している。
整った顔立ちからは化粧の色が見えない。
化粧に興味がないわけではないだろう。
――する必要がないのだ。
すでに完成された作品に下手に手入れすると全体の完成度が崩れてしまうように、女性にしては凛々しい表情の彼女にとって化粧は不要の代物だった。
「ん――?」
僕の視線に気づいたのか、読書中だった彼女は本を閉じると僕を見つめ返した。
「あ――ごめん。読書の邪魔だった?」
僕はうろたえた。女の子をまじまじと見ていた気恥ずかしさもあいまって、僕の顔はリンゴのように赤かっただろう。それだけ、僕が彼女に見とれていたわけだが。
「いや――」
そんな僕が面白かったのか、彼女は穏やかな笑みを浮かべると僕の問いを否定した。
「そんなことはないよ。私にとっての読書は教養を得るためのものではなくて、ただの暇つぶしの娯楽だからね。無理に時間を設ける必要はないし、むしろ君のように話しかけてくれる人がいると助かる。――どうも私は、昔から人に話しかけるのが得意ではないらしい」
どこか男っぽい口調だったが、僕が気になったのはそのことじゃない。
―――この人は、どこか僕に似ている。
そう、確信した。
容姿や性格の話ではない。『人』の根底として、僕と彼女は似ていたのだ。
「でも、本って元々そのためにあるものじゃないかな? 教科書だって専門書だって、知識を得るために存在しているようなものだし」
その確信を表に出さないためか、僕はどうでもいいようなことに反発した。
僕の反論に気を悪くしたようでもない彼女は、むしろ優しい表情で『そうだね――』と始めた。
「確かに、本から得られるものは大きい。世界中にある本を無限に読み続けることができるならば、人はそこから多大な知識を得られるだろう。――でもね、それまでなんだ。いくら知識を得ようが、そこから先に発展しなければ知識としての価値がない。知識はね、収集するものではなくて、活用するものなんだ」
そう話す彼女は僕の眼を見ているのに、どこか遠くを見つめているようだった。
「ふうん」
話半分に聞いていた僕は、このときになって重大なことに気がついた。
僕はまだ、彼女の名前を知らないじゃないか。
ごそごそとプリントにされた名簿を取り出すと、出席番号順に配置された席と照らし合わせて彼女の名前を探した。
「黒宮の後で――斉藤のまえだから……えーと……」
「彩川だよ。彩川那生(さいかわ なお)。そういう君は、黒宮……なんて言うんだい?」
「…………」
僕は自分の名前があまり好きではなかった。親からもらった名前なので、あからさまに嫌いというわけではないが、……なんだか、こういう他人に自分の名前を教える時がものすごく恥ずかしいのだ。
「……ハルって読むんだ。変わっているだろう?」
「そうだね。私もこういう当て字を見るのは生まれて初めてだ。『春』と同じ響きで、葉っぱが流れると書くのか。――うん。いい名前だね」
「――!」
こっちとしても、名前を褒められたのは生まれて初めてだった。
「そうかな? 僕としては恥ずかしいだけだけど……。よく名前と当てはめて、『お前は流されやすい』って言われるけど」
そんなことはない――、と彼女は言う。
「名前は、その人にとって重要な『証明』なんだ。何も恥じることはない。――それに、不思議な響きがあっていい名じゃないか。『流れる』と書くと水をイメージするが、これはそれと違う気がする。水の流れ、ではなく風の流れ。といった感じかな」
何が面白いのか、彼女はそう言うと納得したように何度も頷いた。
「どうしたの?」
「いや、ただの独り言だよ。…………ハル、か。確かに、不思議な余韻を持つ名だ。もしかしたら、私と同じで『素質』があるのかもしれないな。『―――』としての……」
本当に独り言だったので、最後のほうは聞き取れなかった。急に真剣な表情になったことからも、何か大切なことを言っているのだと分かる。しかしこのときの僕には、それが大切なことだとは気がつかなかった。
しばらく考え事をしていた彼女は、思い出したように顔を上げるとおもむろに手を出してきた。
「――?」
僕が怪訝な表情をしていると、彼女は諭すように言った。
「握手だよ。お互い自己紹介をするんだ。これぐらい当たり前だろう?」
いまどき高校生が自己紹介のときに握手をするだろうか? と思いつつ、手を出さないのも失礼かと思い、僕も手を出した。
「あらためてよろしく。私は彩川那生。どうせだから、那生と呼んでくれ。私も君のことを葉流と呼ぶことにするよ。――どうやら、私は君のことを気に入ったようだ」
「え――?」
心が揺れた。気に入った、なんて予想もしてなかった言葉だ。初対面でいきなり気に入られるなんてそうそうない。名前を教えただけなのに、彼女は僕のことを受け入れたというのか?
ありえない……。
「おや? そう驚かないでくれよ。今言ったことは本心から出てきた言葉で、他意はないからね」
彼女の微笑みは、汚れを知らないかのように澄んだものだった。
彼女は僕のことを『気に入った』と言った。
僕には理解のできない言葉。
けど、彼女は本当のことを言っている。
数回しか交わされていない会話で、彼女は僕を受け入れたのだ。
理由は分からない。
この場合、理由はあまり関係ないのかもしれない。
彼女は僕のことを受け入れた。
なら、僕も彼女のことを受け入れようじゃないか。
損得勘定抜きの、彼女の微笑みのように。
僕は彼女の手をとる。
「ああ、よろしく。僕は黒宮葉流。那生、って呼んでいいんだろ?」
僕も微笑み返す。
人前で笑顔を作ったことなんてあまりなかったけど。
この時は、自然に笑えたような気がする。
「もちろん」
こうして僕らは出会った。
今年の春の出来事。
十月の終わり、彼女こと彩川那生が失踪する半年前の出来事だった。
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