月下の王 part5
第二夜 其の一 波紋
彩川那生が失踪してから一週間あまりが過ぎた。
彼女が僕の前からいなくなっても、僕の周りはなんの変化もなかった。
警察は一連の失踪事件と関連付けるだけで、その後の進展があるわけでもない。
クラスメイトの間でも最初の頃は衝撃が走ったものの、それぞれが突然知らされた不幸な出来事として適当に処理してしまった。彼らはもうすでに麻痺してしまっているのだ。あちこちで人が当然のように姿を消している。今更、身近で同じようなことが起きても大して驚きはしない。ただ知人か赤の他人かの違いだけだ。彼らが決して冷たいわけではない。ただ、それがもう『当たり前』になっている。それだけのことだった。
クラスにできた空席も、今では風景と化して馴染んでしまった。
もちろん、彼女の失踪を心配しているものは僕以外にもいる。
それでも、時間が経てば彼女の空白は自然と忘れ去られてしまう。
人の記憶からも、そして世界からも。
那生の存在が風化していく。
それは、彩川那生が思い出の中だけの存在になったからだろうか。
目を瞑れば今もなお、彼女の笑顔を思い浮かべられる。
それができなくなるということは、本当の意味で彼女を失うということだ。
僕はまだ、彼女を失ってはいない。
いや、絶対に取り戻すんだ。
那生は消えてなくなったわけではない。
探せば必ず見つかるはずだ。
根拠なんてない。全ては徒労に終わるかもしれない。
それでも、何もしないまま終わるなんてできるはずがない。
今はまだ手がかりらしい手がかりもない状態だけど、この先に何かあるはずだ。
取り戻したい日常が、那生の存在がきっとある。
そう信じて、進もうと思った。
それは、僕が選んだ道だから。
宝寺舞子はクラスでも物静かで儚い印象を与える生徒だ。
陽の光が苦手そうな白い肌と、細いが美しくて長い手足。やんわりと優しい瞳に、控えめだが落ち着いた物腰。クラスでも特に目立つほうの生徒ではないが、誰とでも垣根なく接することのできる稀有な人間だ。僕もそれほど彼女と親しいわけではないけど、普通に会話するくらいなら日常茶飯事だ。その点では、那生も同じだろう。
東京の闇に巣食う『闇の使徒』なる存在と対面し、朔夜という名の少女に助けられた次の日の昼休み、僕は図書室に足を向けていた。そこには案の定宝寺さんが居て、本の整理をしていた。彼女は別に図書委員というわけではなく、そもそもこの学園に図書委員という役職は存在しない。それはあくまで彼女が自発的にやっていることだった。何でも彼女は読書が趣味で図書室の司書とも仲が良いので、空いた時間に司書の手伝いをしているらしい。これに限らず彼女はボランティアが日常の一環になっているらしく、常に誰かの手伝いをしているらしい。ここら辺がいろんな人に彼女が受け入れられている要因の一つだろう。
僕は本の整理を手伝いながら宝寺さんと話していた。彼女は話しながらも手を休めることなく、手際よく返却された本を指定の本棚に納めていた。ここの図書室では借りた本は元の場所に直接返すのではなく、一度返却ボックスを通してから所定の位置に戻す方法をとっていた。その方が本を綺麗に並べることができて、目当ての本を探しやすいのだという。ここの司書のこだわりみたいなものだ。だがいかんせん図書委員が存在しないので、司書だけでは仕事が追いつかない。それを宝寺さんのようなボランティアで補っているというわけだ。
「『ギブ・アンド・テイク』ですよ」
それが彼女の口癖だ。
彼女の場合は『ギブ』ばかりで『テイク』がないような気もするけど、それは口にしないでおこう。
それでなぜ僕が彼女のボランティアの手伝いをしているかというと、それにはちょっとした事情があった。
「それにしても、彩川さんは無事なのでしょうか?」
普段の何気ない会話の中、宝寺さんは心底心配そうに那生の名前を出した。彼女らしいといえば彼女らしいが、宝寺さんの言葉で僕は少し黙ってしまった。
「……あ、すみません」
僕の表情が暗くなったのを見て、宝寺さんは慌てて謝罪の言葉を述べた。
「黒宮さんも辛いですよね。……黒宮さんは、彩川さんと一番仲が良かった方ですし。すみません、黒宮さんの気持ちも考えないで。私、無責任なことを言ってしまって……」
「……いいよ。別に宝寺さんは悪くないんだし。僕が勝手に悪い方向に想像しちゃっただけだから」
「そうですか?」
「そうだよ。だから、宝寺さんまで暗い顔しないで」
そこで僕は宝寺さんを安心させるために無理にでも笑った表情を見せた。そうでもしなくては彼女は暗い顔のままだ。僕も、気分が後ろ向きになってしまう。僕はここに彼女に聞きたいことがあってきた。こんなところで躓いていては、探している人なんて見つかるはずがない。
「それで、宝寺さんに聞きたいことがあるんだけど……」
「……? はい、何でしょうか」
那生は自分から進んで姿を消した。それは今までの失踪事件とは明らかに異なる点だった。そして、一連の失踪事件が『闇の使徒』によるものだというのも事実だろう。
彩川那生は『闇の使徒』と何らかの関係があり、それで自分から行方を晦ませたのではないだろうか。
それが僕の考えだった。
彼女が失踪する前に僕に残した言葉は、僕を危険なことに巻き込ませないための予防線だったのではないのだろうか。あのときの那生はどこかおかしかった。何かを故意に隠しているような、それでいて完璧には隠しきれていない不自然さがあった。ならば、彼女は他にも手がかりを残しているかもしれない。
そう考えた僕は、情報収集として、身近な人からあたってみることにした。那生と宝寺さんは共に読書家ということもあり、よく話をしていたりした。その間に何か失踪の手がかりになることを宝寺さんに話しているかもしれない。
「彩川さんがいなくなる前の、彼女の不自然な行動ですか……?」
「そう。それ以外にも、ちょっとしたことでいいんだ。何かいつもと違った雰囲気とか、些細な違和感でもいいんだ。何か気づいたことはない? 宝寺さん」
「そうですね……」
そこで彼女は押し黙るように考えた。自分の記憶を探っているのだろう。
数分して、宝寺さんは何かを思い出したのか、静かに口を開いた。
「本当に些細なことなんですけど……」
宝寺さんの言ったことをまとめるとこうだった。
数ヶ月前から生徒の間で真しやかに噂されている都市伝説に、『東京二十四番目の区』というものがあるらしい。それはなんでも、現実とは別の空間に存在し、東京の各地にその異空間に繋がる穴が空いているらしい。その穴からは異空間に棲んでいる化物が出てきて、人間をさらってしまう。さらわれた人間は異空間に連れて行かれて、一生現実世界には戻っては来られないというのだ。それが『東京二十四番目の区』だそうだ。
普通だったら、そんな夢みたいな話を信じる者はいないだろう。しかしそれが、現実的に人が消えているなら話は別だ。決定的な証拠はなくとも、連続失踪事件という不可解な現象付きだと現実味を帯びてくる。同じ説明できない謎として、話はさらに大きくなり、真実かどうかはともかく恐怖の対象として人の心に取り憑いてくる。それが都市伝説という形で具現化したのだ。東京に住むものなら恐れて話題になるのも頷ける。
都市伝説の詳細を話した後、宝寺さんは肝心の部分を僕に話してくれた。
「那生がその都市伝説のことを執拗に聞いてきた?」
「執拗にってわけではないんですけど……どこか必死そうというか、真剣に話を聞いてきたんです。私も都市伝説については話半分というか、よくある噂の類として聞いていたので詳しくは知らなかったんですが、あの真剣さはとても面白半分で知りたがっているようではなかったんです」
どういうことだろうか? 普段の那生を知っていれば、そのような噂話に真剣になるような人物ではないことはすぐにわかるだろう。つまり、都市伝説は彼女にとって何か重要な事項だったということだ。
まさか、闇の使徒は異世界から来た化物とでも言うのだろうか。そんなふざけた話が真実だとは思えないが、これまで体験したことを考えると完全に否定もできない。あの異様な存在を目撃してしまうと、何が現実で何が幻想なのかの境界が曖昧になってしまう。すでに僕は平凡な日常から危険な非日常へと足を踏み入れてしまっている。これからは本当に何が起こってもおかしくはない。これからどんなことがおきても受け入れる覚悟をしなければならない。これも、与太話としてないがしろにしていい情報ではない。
「ありがとう。他に何か気づいたことはない?」
「他に……ですか?」
僕の無茶な要求にも宝寺さんは真剣に考えてくれたが、他には思いつかなかったらしい。
「……すみません。あまり力になれなくて」
「いや、話をしてくれただけで十分だよ。本当に助かったよ」
今は真実と嘘の区別もできない状況なのだ。ならば、そのための判断材料として必要だろう。決して不必要な情報ではない。
「彩川さん、無事だといいですね」
「きっと無事だよ、那生は。その内、ひょっこり顔を出すかもしれないよ。何事もなかったように突然現れて、『何かあったのかい?』ってとぼけるに決まっている」
「ふふ。それは彩川さんらしいですね」
冗談でも、明るく振舞うべきだ。それが、僕にできる精一杯の対応だった。
「そういえば、黒宮さんはあの事件についてご存知ですか?」
それは急な話題転換だった。
宝寺さんは都市伝説の話のときよりも輪をかけて真剣な表情になった。
僕も自然と真剣に宝寺さんの話に耳を傾ける。
「なんでも最近、ここら辺で殺人事件があったそうなんです」
「殺人事件?」
「はい。一昨日の明け方に発見されたそうなので、犯行は深夜のうちに行われたのでしょうね。家の中で家族がバラバラ死体になっていたそうなんです」
「それは……残酷な事件だね」
そんな大変な事件があったなんて知らなかった。那生のことで頭が一杯で、新聞やテレビのニュースもろくに見ていなかったから。きっとクラスでも話題になっていたはずだけど、僕には聞こえなかったのだろう。
宝寺さんは続けた。
「それはもう酷い有様だったそうなんです。居間中血だらけで、被害者の人数すら判別できなかったらしいんです。肉体が原形を留めてないほど引き裂かれていて、とても人間業とは思えないって。怖いですよね」
彼女の表情からも、事件の凄惨さが容易に想像できる。
「それで、犯人は?」
「それが、まだ見つかっていないんです。それどころか、単独犯なのか複数犯なのか、動機や目的も分かっていなくて」
「……そうなんだ」
「だから、黒宮さんも気をつけてくださいね。家の中にまで押し入られたらどうしようもありませんが、せめて注意をしていてください」
「わかった。忠告ありがとう」
「そんな、忠告だなんて。私は、彩川さんも黒宮さんも同等に心配なだけですよ」
「はは。そういうところが宝寺さんらしいや」
「もう。からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん」
宝寺さんもそこで緊張が解けたのか、いつもの優しい笑顔に戻った。
僕も自然に笑えた気がした。
残りの昼休みは、そんな当たり障りのない会話で過ぎていった。
ただ一つ、拭いきれない波紋の音を残して。
……Next 第二夜 其の二 君の影
彩川那生が失踪してから一週間あまりが過ぎた。
彼女が僕の前からいなくなっても、僕の周りはなんの変化もなかった。
警察は一連の失踪事件と関連付けるだけで、その後の進展があるわけでもない。
クラスメイトの間でも最初の頃は衝撃が走ったものの、それぞれが突然知らされた不幸な出来事として適当に処理してしまった。彼らはもうすでに麻痺してしまっているのだ。あちこちで人が当然のように姿を消している。今更、身近で同じようなことが起きても大して驚きはしない。ただ知人か赤の他人かの違いだけだ。彼らが決して冷たいわけではない。ただ、それがもう『当たり前』になっている。それだけのことだった。
クラスにできた空席も、今では風景と化して馴染んでしまった。
もちろん、彼女の失踪を心配しているものは僕以外にもいる。
それでも、時間が経てば彼女の空白は自然と忘れ去られてしまう。
人の記憶からも、そして世界からも。
那生の存在が風化していく。
それは、彩川那生が思い出の中だけの存在になったからだろうか。
目を瞑れば今もなお、彼女の笑顔を思い浮かべられる。
それができなくなるということは、本当の意味で彼女を失うということだ。
僕はまだ、彼女を失ってはいない。
いや、絶対に取り戻すんだ。
那生は消えてなくなったわけではない。
探せば必ず見つかるはずだ。
根拠なんてない。全ては徒労に終わるかもしれない。
それでも、何もしないまま終わるなんてできるはずがない。
今はまだ手がかりらしい手がかりもない状態だけど、この先に何かあるはずだ。
取り戻したい日常が、那生の存在がきっとある。
そう信じて、進もうと思った。
それは、僕が選んだ道だから。
宝寺舞子はクラスでも物静かで儚い印象を与える生徒だ。
陽の光が苦手そうな白い肌と、細いが美しくて長い手足。やんわりと優しい瞳に、控えめだが落ち着いた物腰。クラスでも特に目立つほうの生徒ではないが、誰とでも垣根なく接することのできる稀有な人間だ。僕もそれほど彼女と親しいわけではないけど、普通に会話するくらいなら日常茶飯事だ。その点では、那生も同じだろう。
東京の闇に巣食う『闇の使徒』なる存在と対面し、朔夜という名の少女に助けられた次の日の昼休み、僕は図書室に足を向けていた。そこには案の定宝寺さんが居て、本の整理をしていた。彼女は別に図書委員というわけではなく、そもそもこの学園に図書委員という役職は存在しない。それはあくまで彼女が自発的にやっていることだった。何でも彼女は読書が趣味で図書室の司書とも仲が良いので、空いた時間に司書の手伝いをしているらしい。これに限らず彼女はボランティアが日常の一環になっているらしく、常に誰かの手伝いをしているらしい。ここら辺がいろんな人に彼女が受け入れられている要因の一つだろう。
僕は本の整理を手伝いながら宝寺さんと話していた。彼女は話しながらも手を休めることなく、手際よく返却された本を指定の本棚に納めていた。ここの図書室では借りた本は元の場所に直接返すのではなく、一度返却ボックスを通してから所定の位置に戻す方法をとっていた。その方が本を綺麗に並べることができて、目当ての本を探しやすいのだという。ここの司書のこだわりみたいなものだ。だがいかんせん図書委員が存在しないので、司書だけでは仕事が追いつかない。それを宝寺さんのようなボランティアで補っているというわけだ。
「『ギブ・アンド・テイク』ですよ」
それが彼女の口癖だ。
彼女の場合は『ギブ』ばかりで『テイク』がないような気もするけど、それは口にしないでおこう。
それでなぜ僕が彼女のボランティアの手伝いをしているかというと、それにはちょっとした事情があった。
「それにしても、彩川さんは無事なのでしょうか?」
普段の何気ない会話の中、宝寺さんは心底心配そうに那生の名前を出した。彼女らしいといえば彼女らしいが、宝寺さんの言葉で僕は少し黙ってしまった。
「……あ、すみません」
僕の表情が暗くなったのを見て、宝寺さんは慌てて謝罪の言葉を述べた。
「黒宮さんも辛いですよね。……黒宮さんは、彩川さんと一番仲が良かった方ですし。すみません、黒宮さんの気持ちも考えないで。私、無責任なことを言ってしまって……」
「……いいよ。別に宝寺さんは悪くないんだし。僕が勝手に悪い方向に想像しちゃっただけだから」
「そうですか?」
「そうだよ。だから、宝寺さんまで暗い顔しないで」
そこで僕は宝寺さんを安心させるために無理にでも笑った表情を見せた。そうでもしなくては彼女は暗い顔のままだ。僕も、気分が後ろ向きになってしまう。僕はここに彼女に聞きたいことがあってきた。こんなところで躓いていては、探している人なんて見つかるはずがない。
「それで、宝寺さんに聞きたいことがあるんだけど……」
「……? はい、何でしょうか」
那生は自分から進んで姿を消した。それは今までの失踪事件とは明らかに異なる点だった。そして、一連の失踪事件が『闇の使徒』によるものだというのも事実だろう。
彩川那生は『闇の使徒』と何らかの関係があり、それで自分から行方を晦ませたのではないだろうか。
それが僕の考えだった。
彼女が失踪する前に僕に残した言葉は、僕を危険なことに巻き込ませないための予防線だったのではないのだろうか。あのときの那生はどこかおかしかった。何かを故意に隠しているような、それでいて完璧には隠しきれていない不自然さがあった。ならば、彼女は他にも手がかりを残しているかもしれない。
そう考えた僕は、情報収集として、身近な人からあたってみることにした。那生と宝寺さんは共に読書家ということもあり、よく話をしていたりした。その間に何か失踪の手がかりになることを宝寺さんに話しているかもしれない。
「彩川さんがいなくなる前の、彼女の不自然な行動ですか……?」
「そう。それ以外にも、ちょっとしたことでいいんだ。何かいつもと違った雰囲気とか、些細な違和感でもいいんだ。何か気づいたことはない? 宝寺さん」
「そうですね……」
そこで彼女は押し黙るように考えた。自分の記憶を探っているのだろう。
数分して、宝寺さんは何かを思い出したのか、静かに口を開いた。
「本当に些細なことなんですけど……」
宝寺さんの言ったことをまとめるとこうだった。
数ヶ月前から生徒の間で真しやかに噂されている都市伝説に、『東京二十四番目の区』というものがあるらしい。それはなんでも、現実とは別の空間に存在し、東京の各地にその異空間に繋がる穴が空いているらしい。その穴からは異空間に棲んでいる化物が出てきて、人間をさらってしまう。さらわれた人間は異空間に連れて行かれて、一生現実世界には戻っては来られないというのだ。それが『東京二十四番目の区』だそうだ。
普通だったら、そんな夢みたいな話を信じる者はいないだろう。しかしそれが、現実的に人が消えているなら話は別だ。決定的な証拠はなくとも、連続失踪事件という不可解な現象付きだと現実味を帯びてくる。同じ説明できない謎として、話はさらに大きくなり、真実かどうかはともかく恐怖の対象として人の心に取り憑いてくる。それが都市伝説という形で具現化したのだ。東京に住むものなら恐れて話題になるのも頷ける。
都市伝説の詳細を話した後、宝寺さんは肝心の部分を僕に話してくれた。
「那生がその都市伝説のことを執拗に聞いてきた?」
「執拗にってわけではないんですけど……どこか必死そうというか、真剣に話を聞いてきたんです。私も都市伝説については話半分というか、よくある噂の類として聞いていたので詳しくは知らなかったんですが、あの真剣さはとても面白半分で知りたがっているようではなかったんです」
どういうことだろうか? 普段の那生を知っていれば、そのような噂話に真剣になるような人物ではないことはすぐにわかるだろう。つまり、都市伝説は彼女にとって何か重要な事項だったということだ。
まさか、闇の使徒は異世界から来た化物とでも言うのだろうか。そんなふざけた話が真実だとは思えないが、これまで体験したことを考えると完全に否定もできない。あの異様な存在を目撃してしまうと、何が現実で何が幻想なのかの境界が曖昧になってしまう。すでに僕は平凡な日常から危険な非日常へと足を踏み入れてしまっている。これからは本当に何が起こってもおかしくはない。これからどんなことがおきても受け入れる覚悟をしなければならない。これも、与太話としてないがしろにしていい情報ではない。
「ありがとう。他に何か気づいたことはない?」
「他に……ですか?」
僕の無茶な要求にも宝寺さんは真剣に考えてくれたが、他には思いつかなかったらしい。
「……すみません。あまり力になれなくて」
「いや、話をしてくれただけで十分だよ。本当に助かったよ」
今は真実と嘘の区別もできない状況なのだ。ならば、そのための判断材料として必要だろう。決して不必要な情報ではない。
「彩川さん、無事だといいですね」
「きっと無事だよ、那生は。その内、ひょっこり顔を出すかもしれないよ。何事もなかったように突然現れて、『何かあったのかい?』ってとぼけるに決まっている」
「ふふ。それは彩川さんらしいですね」
冗談でも、明るく振舞うべきだ。それが、僕にできる精一杯の対応だった。
「そういえば、黒宮さんはあの事件についてご存知ですか?」
それは急な話題転換だった。
宝寺さんは都市伝説の話のときよりも輪をかけて真剣な表情になった。
僕も自然と真剣に宝寺さんの話に耳を傾ける。
「なんでも最近、ここら辺で殺人事件があったそうなんです」
「殺人事件?」
「はい。一昨日の明け方に発見されたそうなので、犯行は深夜のうちに行われたのでしょうね。家の中で家族がバラバラ死体になっていたそうなんです」
「それは……残酷な事件だね」
そんな大変な事件があったなんて知らなかった。那生のことで頭が一杯で、新聞やテレビのニュースもろくに見ていなかったから。きっとクラスでも話題になっていたはずだけど、僕には聞こえなかったのだろう。
宝寺さんは続けた。
「それはもう酷い有様だったそうなんです。居間中血だらけで、被害者の人数すら判別できなかったらしいんです。肉体が原形を留めてないほど引き裂かれていて、とても人間業とは思えないって。怖いですよね」
彼女の表情からも、事件の凄惨さが容易に想像できる。
「それで、犯人は?」
「それが、まだ見つかっていないんです。それどころか、単独犯なのか複数犯なのか、動機や目的も分かっていなくて」
「……そうなんだ」
「だから、黒宮さんも気をつけてくださいね。家の中にまで押し入られたらどうしようもありませんが、せめて注意をしていてください」
「わかった。忠告ありがとう」
「そんな、忠告だなんて。私は、彩川さんも黒宮さんも同等に心配なだけですよ」
「はは。そういうところが宝寺さんらしいや」
「もう。からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん」
宝寺さんもそこで緊張が解けたのか、いつもの優しい笑顔に戻った。
僕も自然に笑えた気がした。
残りの昼休みは、そんな当たり障りのない会話で過ぎていった。
ただ一つ、拭いきれない波紋の音を残して。
……Next 第二夜 其の二 君の影