月下の王 prologue
プロローグ
月の綺麗な夜だった。
漆黒の夜空に神秘的な存在感を放ち、無味乾燥な世界に淡くどこか儚げな月光を降り注いでいる、月。言うなれば、月は夜の神様のようなものだ。地上にいる僕らはその神様を遠くから眺めるばかりで、決して触れることはできない。天高く手を伸ばしても、空を掴むばかりであの輝く月にはかすりもしない。
けれども、それでもいいと思う。
眺めているだけだからこそ、月は幻想的なのだ。
手が届かないからこそ、月は神秘的なのだ。
しかし、
いくら眺めていても見飽きることのない月から、僕は眼を離していた。
それは幻想的な月よりも幻想的だった。
それは神秘的な月よりも神秘的だった。
そこに存在していることすら奇跡的で、思わず息を呑んでしまう。
夜空から降り注ぐ月光がその肢体に反射して、あたかも彼女から光が発しているような錯覚さえ覚えてしまう。
いや、それは錯覚などではない。
確かに、この僕には眼前に直立する彼女から威光のようなものが発せられているのを見たのだ。
堂々と、しかし美しく。眼光鋭くも、気品を失わずに。逞しくも、流麗で。
少女という姿をした別の何かのように、明確な不鮮明さが僕を虜にさせた。
「そこの、オマエ」
耳に心地よい柔らかな声質だったが、言っていることは荒々しい。とても少女とは思えない口調だったが、今の僕にはそれどころじゃなかった。
「こんなところでなにをしている? 夜の東京がどんな場所かも分からないぐらい、オマエはガキか?」
蔑むような視線だったが、彼女は嘲笑っているわけではない。怒っているのだ。軽率な行動に走った僕を、自分のことのように考えて怒っているのだ。その人を小ばかにしたような態度からは想像もつかないが、彼女は叱ってくれているのだ。他でもない、この僕を。
「説教は……まあいい。何の気の迷いかは知らないが助けた手前、最後まで生きてもらわないとこっちとしては助け損だ。――いいか。そこから一歩も動くなよ。一歩でも動いたら命の保証はしない。つまりは――死ぬぞ」
やけに物騒な言葉だったが、暗にそれは『そこから一歩も動かなければ死なせはしない』と言っているようだった。
彼女は僕に釘を刺すと背を向け、手にした得物を天高く掲げる。
死神を連想させる、禍々しくも彼女に似合った麗容な大鎌を。
僕はその圧倒的な存在感に見とれる。少女のそれである華奢な体つきからは想像できない気迫が体中から漲っているのが分かる。
彼女の気に反響されてか、先程までおとなしかった辺りの闇が一斉に蠢き始める。
「――いいぞ、かかってこい。片っ端から切り刻んでやる」
そう言うと彼女は一目散に闇に踊りかかり、その死の象徴を暗黒へと振り下ろす。
一閃。
二閃。
まるで舞踊でもしているかのように華麗で、動きに無駄がない。最高級の舞を見ているようで鳥肌が立つ。
彼女が立っているのは人間の範疇には遠く及ばない、人知を越えた領域だ。それを目の当たりにしている僕は一体何者なのだろう。
覚悟して飛び込んだはずなのに、僕が踏み込んだ世界はなんて遠い場所なのだろうか?
月が夜を支配する神なら、彼女はあたかもその世界に君臨する王のようであった。
僕みたいな一般人では話にならない、夢物語のような現実だ。
彼女は身の丈の倍はあろうかという大鎌を器用に操り、押し寄せる黒い何かを薙ぎ払っている。その烈風たるや、二〇メートル離れている僕のところまで伝わってくる。
彼女は鬼神の気迫で、僕では辿り着けそうもない領域で戦っている。
おそらく、命を賭けて。
「僕は……」
何をしにここまで来た?
決心が歪む。決意が薄れる。覚悟の余韻が唐突に霧散する。
何も僕は遊びにここまで来たんじゃない……!
真実を知りたかったから。
闇に埋もれた本当の意味を見出したかった。
そのために危険を冒してこの場にいる。
「僕は……」
迷っている自分に腹が立つ。
何を踏みとどまっているのか、と。
僕は何も、遊び半分の気持ちでこの場にいるわけではない!
「僕は……!」
震える手足に喝をいれ、沈みかけていた心を奮い立たせる。
僕には知りたいことがある。
取り戻したいものもある。
だから、こんなところで踏みとどまってはいられない。
決意を新たにその一歩を踏み出す。
それは、情けも容赦もない真実への第一歩。
……Next 第一夜 其の一 夜
月の綺麗な夜だった。
漆黒の夜空に神秘的な存在感を放ち、無味乾燥な世界に淡くどこか儚げな月光を降り注いでいる、月。言うなれば、月は夜の神様のようなものだ。地上にいる僕らはその神様を遠くから眺めるばかりで、決して触れることはできない。天高く手を伸ばしても、空を掴むばかりであの輝く月にはかすりもしない。
けれども、それでもいいと思う。
眺めているだけだからこそ、月は幻想的なのだ。
手が届かないからこそ、月は神秘的なのだ。
しかし、
いくら眺めていても見飽きることのない月から、僕は眼を離していた。
それは幻想的な月よりも幻想的だった。
それは神秘的な月よりも神秘的だった。
そこに存在していることすら奇跡的で、思わず息を呑んでしまう。
夜空から降り注ぐ月光がその肢体に反射して、あたかも彼女から光が発しているような錯覚さえ覚えてしまう。
いや、それは錯覚などではない。
確かに、この僕には眼前に直立する彼女から威光のようなものが発せられているのを見たのだ。
堂々と、しかし美しく。眼光鋭くも、気品を失わずに。逞しくも、流麗で。
少女という姿をした別の何かのように、明確な不鮮明さが僕を虜にさせた。
「そこの、オマエ」
耳に心地よい柔らかな声質だったが、言っていることは荒々しい。とても少女とは思えない口調だったが、今の僕にはそれどころじゃなかった。
「こんなところでなにをしている? 夜の東京がどんな場所かも分からないぐらい、オマエはガキか?」
蔑むような視線だったが、彼女は嘲笑っているわけではない。怒っているのだ。軽率な行動に走った僕を、自分のことのように考えて怒っているのだ。その人を小ばかにしたような態度からは想像もつかないが、彼女は叱ってくれているのだ。他でもない、この僕を。
「説教は……まあいい。何の気の迷いかは知らないが助けた手前、最後まで生きてもらわないとこっちとしては助け損だ。――いいか。そこから一歩も動くなよ。一歩でも動いたら命の保証はしない。つまりは――死ぬぞ」
やけに物騒な言葉だったが、暗にそれは『そこから一歩も動かなければ死なせはしない』と言っているようだった。
彼女は僕に釘を刺すと背を向け、手にした得物を天高く掲げる。
死神を連想させる、禍々しくも彼女に似合った麗容な大鎌を。
僕はその圧倒的な存在感に見とれる。少女のそれである華奢な体つきからは想像できない気迫が体中から漲っているのが分かる。
彼女の気に反響されてか、先程までおとなしかった辺りの闇が一斉に蠢き始める。
「――いいぞ、かかってこい。片っ端から切り刻んでやる」
そう言うと彼女は一目散に闇に踊りかかり、その死の象徴を暗黒へと振り下ろす。
一閃。
二閃。
まるで舞踊でもしているかのように華麗で、動きに無駄がない。最高級の舞を見ているようで鳥肌が立つ。
彼女が立っているのは人間の範疇には遠く及ばない、人知を越えた領域だ。それを目の当たりにしている僕は一体何者なのだろう。
覚悟して飛び込んだはずなのに、僕が踏み込んだ世界はなんて遠い場所なのだろうか?
月が夜を支配する神なら、彼女はあたかもその世界に君臨する王のようであった。
僕みたいな一般人では話にならない、夢物語のような現実だ。
彼女は身の丈の倍はあろうかという大鎌を器用に操り、押し寄せる黒い何かを薙ぎ払っている。その烈風たるや、二〇メートル離れている僕のところまで伝わってくる。
彼女は鬼神の気迫で、僕では辿り着けそうもない領域で戦っている。
おそらく、命を賭けて。
「僕は……」
何をしにここまで来た?
決心が歪む。決意が薄れる。覚悟の余韻が唐突に霧散する。
何も僕は遊びにここまで来たんじゃない……!
真実を知りたかったから。
闇に埋もれた本当の意味を見出したかった。
そのために危険を冒してこの場にいる。
「僕は……」
迷っている自分に腹が立つ。
何を踏みとどまっているのか、と。
僕は何も、遊び半分の気持ちでこの場にいるわけではない!
「僕は……!」
震える手足に喝をいれ、沈みかけていた心を奮い立たせる。
僕には知りたいことがある。
取り戻したいものもある。
だから、こんなところで踏みとどまってはいられない。
決意を新たにその一歩を踏み出す。
それは、情けも容赦もない真実への第一歩。
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