月下の王 part1
第一夜 其の一 夜
夜の東京から人が消え始めたのは、話によると五年位前からになるらしい。
最初は些細なことだった。
東京都渋谷区内にあるみすぼらしいアパートのとある住人が、忽然と行方を晦ましたのだ。そこのアパートの大家は当初、失踪した住人は夜逃げをしたのだと自身で納得し、不審に思わなかった。それも当然、そこの住人は度が過ぎると形容していいほどの自己中心的な人間だったのだ。家賃を三ヶ月も滞納するくせに部屋の内装がボロすぎると大家にいちゃもんをつけ家賃を踏み倒そうとしたり、隣の部屋から少しでも物音がすると迷惑だと隣人室に怒鳴り込んで逆に不眠症にさせたり、新たに入居してきた住人に気に食わないという理由で散々嫌がらせをしたあげくアパートから追い出したりとどうしようもない人間だった。
この惨状に頭を抱えていた大家は彼の失踪に一安心し、アパートのほかの住人たちも平和が戻ったと歓喜してさえいた。
この時がすでに異常事態であるということに気づきもせずに。
しばらくして、大家は掃除もかねて失踪した住人の部屋へと足を踏み込んだ。安価の家賃のため(付け足すと最寄りの駅まで徒歩二分という好条件)新しく入居を希望する者が増えたためだ。いつまでもほったらかしにするわけにはいくまいと、過去の住人に対する嫌悪感を滲ませながら大家は部屋へと踏み入った。
彼の失踪に対する違和感に気づいたのはその時だった。
足の踏み場もないほど散らかった床。
炊事という言葉を知らないのかと思われるほど意味を成してない台所。
彼の趣味なのか、気色が悪いとしか思えない壁に貼られたポスターの数々。
主食なのかと思うほど散乱している酒とタバコの残りカス。
以前覗いたときとまったく同じ光景がそこに広がっていた。
人間が住んでいる部屋としては見るに耐えないが、彼の生活を十分に表現している。
が、
大家はその戦慄を隠せなかった。
――何かがオカシイ。
長時間居たくないような気味の悪さを覚えたのは、この部屋があまりにも汚染されていたからではない。
その部屋に異変らしい異変がなかったからである。
部屋の中央に適当に置かれたちゃぶ台に目がいく。
その上には空になった発泡酒の缶と、タバコの吸殻の山、そしてケース。
嗜好品がなくなったため近くのコンビニに調達しに行っている。
その途中で人がいなくなった部屋にしか見えないのである。
とても夜逃げをした人間が残した部屋には思えない。
その事実が、余計に大家の表情を強張らせる。
深夜に(おそらくコンビニに行くのであろう)彼が部屋を後にしているのを他の住人が目撃していた。
彼は一体どこに行ったのか?
どこに消えてしまったのか?
事態がさらに悪化したのはそれから一週間後のことだった。
音という音が退去したかのような静けさの中、例のアパートの前に僕は立っていた。しかしアパートと呼ぶには早計過ぎる。そこはすでに廃墟なのだから。
「ここが始まりの場所と呼ばれる呪われたアパート……。最初の失踪からたった一ヶ月で住人の九割が姿を消したのだから、この有様もしかたがないか」
夜の闇の中にそびえるそれは、とても以前は人が住んでいたような建物には見えなかった。不気味に佇む元アパートは月に照らされて、その異様さを倍増している。心霊スポットとして売り出せば人を呼ぶだろう。……この夜の中を来る度胸があるものがいればの話だが。
「危険ではすまされないからな。……ったく、僕も馬鹿だよな。無茶だと分かっているのに夜出歩くなんて、母さんにばれたらなんて言い訳すればいいんだ」
僕は自嘲気味に独り言をこぼすと踵を返し、廃墟と化したアパートを後にした。
このアパートでの一件以来、東京では奇妙な失踪が相次いだ。
共通しているのは、深夜外に出た人間だけが姿を消すという不可解な事実。
その他に巻き込まれている人たちの共通点が見当たらないという不可思議な現実だった。
事件(か事故なのかも謎だが)に遭った(であろう)場所も様々だ。一応東京二十三区内だけのようだが、二十三区内全域でこの現象が報告されており、被害者数は百人とも二百人とも言われている。
事を重く見た政府は警察の警備を厳重にし、自衛隊を出動させるまでに発展したがこれも逆効果だった。その肝心の自衛隊にまで失踪者が続出し、政府は警備網を解除せざるを得なくなった。
民衆の間には様々な臆説が流れ、混乱が混乱を呼び荒れに荒れた時期もあった。
新手の工作員による拉致事件だとか、現代に蘇った妖怪による人間狩りだとか、人の数だけの憶測だったが、行き着く先はみな同じだった。
東京の夜の闇には、何かが潜んでいる。
その得体の知れない『何か』は東京の夜に住み着き、蠢き、外に出歩く人間を消失させる。消失した人間がどこへ行くのかは分からない。生きているのか、死んでいるのかさえ分からないのだ。存在そのものが、世界から消失してしまう。その混沌とした『無』に恐怖を覚えない人間などいはしない。日が暮れると街からは人という人が姿を消し、安全である我が家へと引きこもる。深夜、外に出ようと思う人間が劇的に減少したのだから、二十四時間営業の店も少なくなった。警察でさえ夜間の警邏を自粛しているのだ。日本の首都である東京がどれだけ変わったのかは歴然だろう。
いや、狂い始めたといったほうがいいのかもしれない。
日本で一番活気があるはずの都市が、深夜になるとゴーストタウンのそれと近しい。西部劇に出てきそうな荒廃しきった街のように、夜の東京では『人』の存在感が希薄になる。元々の静寂さとあわせると、夜の東京がよりいっそう異界めいて見える。
違う。ここはすでに異世界だ。
ねっとりとした、まとわりつくような外気は十一月という肌寒さを忘れさせる。
明かりが消えたせいでどこまでも深い闇は一種の麻薬で、理性という心の防御壁を麻痺させ恐怖への抵抗を無力化させている。
闇に染まった視界は不安を駆り立て、先が見えない道は精神の安息を許してはくれない。
この暗い道には果てがないかもしれない。
そんな錯覚を抱かせてしまうほど、この闇はむき出しになった心を追い詰める。
進める。進める。進める。進める。進める。進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める――――――――――――――――――――――――。
それはもはや催眠ではなく洗脳だ。
光へ向かっての前進ではなく、闇に魅入られての盲進なのだ。
その先に待ち受けている『何か』へと、我々は知らず知らずのうちに導かれているのかもしれない。
――――――――――――消滅へと。
この淀みなく進む足が自分の意志で動いているのかさえ自信が持てない。
恐怖しているくせに、理性では危険だと分かっているはずなのに、体が言うことを聞かない。
――――――――消失へと。
荒い呼吸で白く染まる息が、なぜだかとても非現実に思えてならない。
そうじゃない。おかしくなっているのは現実ではない。
自分自身だ。
――――消去へと。
壊れかけていく自分に驚きを隠せない。
侮っていたのかもしれない心の油断に、我ながら呆れてものも言えない。
自分は何も、消されに来たわけではないのだから。
「――那生(なお)」
それは、人付き合いが得意ではない自分にとって唯一の友人の名。
そして、一週間前に姿を消した一人の少女の名。
彼女がなぜ突然いなくなってしまったかは分からない。
分からないからこそ、こうして夜の東京へと繰り出しているのだ。
彼女がいなくなった原因はこの闇にあるはずなのだから……
「僕は……君が何を想い、何を考え、どういう理由でいなくなったのかは分からない。僕は友達だといいながら、君の事を理解できなかった自分自身に腹が立つ。今更になって君のことが知りたくなった自分の欲を醜いとさえ感じている」
けど――、
「だからこそ、僕は君が消えた理由を知りたいんだ。この闇の正体を知りたいんだ。東京を狂わせ続けている闇。君はその正体に気づきかけていたんだろう? だからこそ、いなくなったんだ。僕に迷惑をかけないように。二度と日常には戻れないと覚悟しながら、それでいて僕には心配をかけさせまいと、君はいつもどおり僕に微笑みかけてくれたんだ」
あの日、一週間前。彼女が消える前日、彼女の言葉を思い出す。
――もしも、もしもだよ。私が君の前から突然いなくなるようなことがあったとしても。
何かを決意したような横顔。見慣れたはずのその笑顔が、僕はなぜか悲しく見えたのだ。
――君は君のままで、変わらずに毎日を過ごしてくれるかい? ――葉流(はる)。
そう言って、君は僕の前から消えた。
一週間前に。
「そんなこと、できるはずがないじゃないか! 君といる毎日が僕の日常だったんだ。君がいなくなった今、僕が以前と変わらずに生活できるわけがないんだ……!」
洗脳されかけた理性を現実に戻し、ただ一人の友人を探して黒宮葉流(くろみや はる)は歩き出す。
この先に那生へと続く道があるのだと信じて――。
「――!」
悪寒が走る。突如として辺りの空気が変異したのだ。
不気味な、吐き気がする闇から、おぞましいほど底のない泥沼のような闇に、
世界が一変した。
「――あ、あ……」
僕はその恐怖に耐え切れず疾走した。
脇目も振らず、ただ闇から逃避するように夜の東京を駆ける。
冬に至ろうとする肌寒さは、『何か』に監視されているような寒気となって容赦なく僕に突き刺さる。
針で刺されているような生易しい苦痛ではない。
槍で全身を穿たれているような激痛だ。
小動物ならたやすく射殺せてしまえそうな視線。
気配はしないのに、確かにそこにいる『何か』の視線を僕は感じていた。
「気味が悪いのを通り越して、目眩がするな。……これは」
振り払おうにも執拗に追いかけてくるそれはいささか奇妙だった。
追いかけているはずなのに、追いつこうとしていない。
かといって、懸命に駆けている僕を決して逃がしてはくれないのだ。
つかず離れずの距離を保っているこれは……。
「もしかして、誘導されている?」
気づいたときには遅かった。
静かだけれど人がいる住宅街を抜け、オフィス街をかわし、ポツリと穴を開けたそこは。
深緑が人気を博している、やけに面積だけはある自然公園だった。
昼間は子供からお年寄りまで幅広い年齢層が愛用している公園だが、夜に使用しているものなど皆無だ。特に失踪率が高い渋谷ならなおさら、今この場所に葉流以外の人間などいはしないし、そんな命知らずな人間は葉流以外にいるはずがなかった。
完全に、ハメられた。
「ウソだよね……」
なぜこうなるまで気がつけなかった?
否。気がつけなかったのではない。
追われているものに気がつかないように、『何か』は巧みに誘導していたのだ。
姿が見えない『何か』の知能の高さに僕は戦慄した。
逃げることしかできなかった僕より、相手が一枚も二枚も上手だった。
それだけの話なのに、僕はその不可思議さの正体を探っていた。
「これは、一体……?」
僕が思考の泥沼にはまっていたその時、『何か』は正体を現した。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ――――――。
這いずるような、引きずるような音と共に闇の中から姿を現したのは、それまた『闇』だった。
しかし、夜の闇とは明らかに別物だった。
ただ無限に広がっている無秩序な闇と違って、それは『個』という秩序を持った具現化した闇だ。黒い塊と表現したほうが分かりやすいだろう。スライムを漆黒に染め上げたような『闇』は形状を多様に変化させながら、より現実に依存するために『個』を明確にしていく。
同じ闇色の中にいるはずなのに、『闇』は闇に霞むことなく『個』としてそこに存在している。それは背景としての闇の中に、存在としての形を持っているから。存在意義が異なるのだから、溶け込まないのは必然である。
ズズズ――と、『闇』が完全に現界した時、僕の震えは最高潮に達していた。
「…………!」
声すら出ない。
アレから目が離せない。
体は時が止まったように動かなくなり、かわって心音だけが時間の経過をリアルに教えてくれている。
……ドクン…………ドクン………………ドクン…………………………ドクン――――。
五分だったかもしれないし、十分以上そうしていたかもしれない棒立ちは、『闇』の消失によって唐突に終わりを告げた。
「な――!」
『闇』が消えた。
違う。僕の真上へと跳躍しただけだ。
『闇』が空に浮かぶ月と重なる。
月光が『闇』を透かし、僕に警告していた。
避けろ――と。
「うわっ!」
僕は凝固していた体を無理やりひねると、勢いに任せて後方へと飛びのいた。
「つあっ……!」
慣れない行動に着地が上手くいかず、尻餅をついてしまった。
痛む体を無視して、僕はその物体を直視した。
「――――」
そこにいる『闇』からは何も感じられなかった。
敵意も殺意も悪意も、些細な感情の変化すら感じられない、虚無の塊。
闇なのだからそれも当たり前なのかもしれない。
しかし、最低でも僕には、何も感じられない『闇』に違和感を覚えたのだ。
ユラユラ揺れる『闇』は、再び僕へと飛び掛ろうとする。
消される――。
――即座に直感した。
夜の東京からは人が消える。
その原因こそが、この『闇』だったのだ。
なぜこんなものが存在しているのかは分からない。
が、人が消失したのは『闇』によるものだと、僕はその肌で感じ取っていた。
消される。
『闇』が行動に出れば、非力な僕などあっさりと無にできるだろう。
消される。
そんなことがあってたまるか……!
僕は何も、自ら消されにやってきたわけではない。
意味もなく危険な場所に足を踏み入れたわけではない!
「那生」
友人である少女の後姿が目に浮かぶ。
彼女を探すと決めた。
彼女が見つけ出そうとしていた物に、たどり着いて見せると決意した。
その決意を――、
「消すわけにはいかない!」
すぐさま横に跳躍した。
『闇』の突進を辛くもかわしたが、僕の眼には別のものが映りこんできた。
「おい、ウソだろ……!」
横に避けた先にいたのは、今しがた僕に突進してきた『闇』とは別の『闇』
二体目がいたのか――。
間に合わない。
二体目は間抜けにも自分に飛び込んでくる僕を待ち受けていた。
まずい――!
このままでは『闇』と正面衝突してしまう。だが、体重を乗せて跳んだ手前体勢が傾いていて急な方向転換ができない。
「僕は――」
消されてしまうのか?
こんなにも簡単に、取りとめもない話のように、無価値に、何もしないまま。
大切な人の足跡すらたどれずに。
「――――」
僕は一瞬眼を瞑ってしまった。
恐怖からだろう。自分が消されようとする瞬間を見ないように眼を瞑った。
しかし何も起きない。
消されるのだから、痛いとか苦しいとかはないのかもしれないが、これはあまりにも静か過ぎた。
「――オマエ、何をボーっとしている」
柔らかな、しかし荒々しい声が聞こえた。
「――え?」
僕はいつの間にか地面にひざまずいていた。
顔を上げる。
最初に眼に入ったのは禍々しいばかりの光を放つ、死神が持っていそうな大鎌。
が、それよりも鮮烈だったのは大鎌を持つ少女の顔だった。
絵画のようなまとまった顔立ち。
綺麗な部品が集まったのではなく、一つの美として体現したような顔だった。
鋭い目つきも、引き締まった唇も、絹のようにしなやかな肩までの髪も。
すべてが彼女のためだけに用意された代物のように思えた。
思わず見とれる。
月の綺麗な夜だった。
夜の闇を照らす月の下。
僕と彼女は出会った。
……Next 第一夜 追憶一
夜の東京から人が消え始めたのは、話によると五年位前からになるらしい。
最初は些細なことだった。
東京都渋谷区内にあるみすぼらしいアパートのとある住人が、忽然と行方を晦ましたのだ。そこのアパートの大家は当初、失踪した住人は夜逃げをしたのだと自身で納得し、不審に思わなかった。それも当然、そこの住人は度が過ぎると形容していいほどの自己中心的な人間だったのだ。家賃を三ヶ月も滞納するくせに部屋の内装がボロすぎると大家にいちゃもんをつけ家賃を踏み倒そうとしたり、隣の部屋から少しでも物音がすると迷惑だと隣人室に怒鳴り込んで逆に不眠症にさせたり、新たに入居してきた住人に気に食わないという理由で散々嫌がらせをしたあげくアパートから追い出したりとどうしようもない人間だった。
この惨状に頭を抱えていた大家は彼の失踪に一安心し、アパートのほかの住人たちも平和が戻ったと歓喜してさえいた。
この時がすでに異常事態であるということに気づきもせずに。
しばらくして、大家は掃除もかねて失踪した住人の部屋へと足を踏み込んだ。安価の家賃のため(付け足すと最寄りの駅まで徒歩二分という好条件)新しく入居を希望する者が増えたためだ。いつまでもほったらかしにするわけにはいくまいと、過去の住人に対する嫌悪感を滲ませながら大家は部屋へと踏み入った。
彼の失踪に対する違和感に気づいたのはその時だった。
足の踏み場もないほど散らかった床。
炊事という言葉を知らないのかと思われるほど意味を成してない台所。
彼の趣味なのか、気色が悪いとしか思えない壁に貼られたポスターの数々。
主食なのかと思うほど散乱している酒とタバコの残りカス。
以前覗いたときとまったく同じ光景がそこに広がっていた。
人間が住んでいる部屋としては見るに耐えないが、彼の生活を十分に表現している。
が、
大家はその戦慄を隠せなかった。
――何かがオカシイ。
長時間居たくないような気味の悪さを覚えたのは、この部屋があまりにも汚染されていたからではない。
その部屋に異変らしい異変がなかったからである。
部屋の中央に適当に置かれたちゃぶ台に目がいく。
その上には空になった発泡酒の缶と、タバコの吸殻の山、そしてケース。
嗜好品がなくなったため近くのコンビニに調達しに行っている。
その途中で人がいなくなった部屋にしか見えないのである。
とても夜逃げをした人間が残した部屋には思えない。
その事実が、余計に大家の表情を強張らせる。
深夜に(おそらくコンビニに行くのであろう)彼が部屋を後にしているのを他の住人が目撃していた。
彼は一体どこに行ったのか?
どこに消えてしまったのか?
事態がさらに悪化したのはそれから一週間後のことだった。
音という音が退去したかのような静けさの中、例のアパートの前に僕は立っていた。しかしアパートと呼ぶには早計過ぎる。そこはすでに廃墟なのだから。
「ここが始まりの場所と呼ばれる呪われたアパート……。最初の失踪からたった一ヶ月で住人の九割が姿を消したのだから、この有様もしかたがないか」
夜の闇の中にそびえるそれは、とても以前は人が住んでいたような建物には見えなかった。不気味に佇む元アパートは月に照らされて、その異様さを倍増している。心霊スポットとして売り出せば人を呼ぶだろう。……この夜の中を来る度胸があるものがいればの話だが。
「危険ではすまされないからな。……ったく、僕も馬鹿だよな。無茶だと分かっているのに夜出歩くなんて、母さんにばれたらなんて言い訳すればいいんだ」
僕は自嘲気味に独り言をこぼすと踵を返し、廃墟と化したアパートを後にした。
このアパートでの一件以来、東京では奇妙な失踪が相次いだ。
共通しているのは、深夜外に出た人間だけが姿を消すという不可解な事実。
その他に巻き込まれている人たちの共通点が見当たらないという不可思議な現実だった。
事件(か事故なのかも謎だが)に遭った(であろう)場所も様々だ。一応東京二十三区内だけのようだが、二十三区内全域でこの現象が報告されており、被害者数は百人とも二百人とも言われている。
事を重く見た政府は警察の警備を厳重にし、自衛隊を出動させるまでに発展したがこれも逆効果だった。その肝心の自衛隊にまで失踪者が続出し、政府は警備網を解除せざるを得なくなった。
民衆の間には様々な臆説が流れ、混乱が混乱を呼び荒れに荒れた時期もあった。
新手の工作員による拉致事件だとか、現代に蘇った妖怪による人間狩りだとか、人の数だけの憶測だったが、行き着く先はみな同じだった。
東京の夜の闇には、何かが潜んでいる。
その得体の知れない『何か』は東京の夜に住み着き、蠢き、外に出歩く人間を消失させる。消失した人間がどこへ行くのかは分からない。生きているのか、死んでいるのかさえ分からないのだ。存在そのものが、世界から消失してしまう。その混沌とした『無』に恐怖を覚えない人間などいはしない。日が暮れると街からは人という人が姿を消し、安全である我が家へと引きこもる。深夜、外に出ようと思う人間が劇的に減少したのだから、二十四時間営業の店も少なくなった。警察でさえ夜間の警邏を自粛しているのだ。日本の首都である東京がどれだけ変わったのかは歴然だろう。
いや、狂い始めたといったほうがいいのかもしれない。
日本で一番活気があるはずの都市が、深夜になるとゴーストタウンのそれと近しい。西部劇に出てきそうな荒廃しきった街のように、夜の東京では『人』の存在感が希薄になる。元々の静寂さとあわせると、夜の東京がよりいっそう異界めいて見える。
違う。ここはすでに異世界だ。
ねっとりとした、まとわりつくような外気は十一月という肌寒さを忘れさせる。
明かりが消えたせいでどこまでも深い闇は一種の麻薬で、理性という心の防御壁を麻痺させ恐怖への抵抗を無力化させている。
闇に染まった視界は不安を駆り立て、先が見えない道は精神の安息を許してはくれない。
この暗い道には果てがないかもしれない。
そんな錯覚を抱かせてしまうほど、この闇はむき出しになった心を追い詰める。
進める。進める。進める。進める。進める。進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める、進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める進める――――――――――――――――――――――――。
それはもはや催眠ではなく洗脳だ。
光へ向かっての前進ではなく、闇に魅入られての盲進なのだ。
その先に待ち受けている『何か』へと、我々は知らず知らずのうちに導かれているのかもしれない。
――――――――――――消滅へと。
この淀みなく進む足が自分の意志で動いているのかさえ自信が持てない。
恐怖しているくせに、理性では危険だと分かっているはずなのに、体が言うことを聞かない。
――――――――消失へと。
荒い呼吸で白く染まる息が、なぜだかとても非現実に思えてならない。
そうじゃない。おかしくなっているのは現実ではない。
自分自身だ。
――――消去へと。
壊れかけていく自分に驚きを隠せない。
侮っていたのかもしれない心の油断に、我ながら呆れてものも言えない。
自分は何も、消されに来たわけではないのだから。
「――那生(なお)」
それは、人付き合いが得意ではない自分にとって唯一の友人の名。
そして、一週間前に姿を消した一人の少女の名。
彼女がなぜ突然いなくなってしまったかは分からない。
分からないからこそ、こうして夜の東京へと繰り出しているのだ。
彼女がいなくなった原因はこの闇にあるはずなのだから……
「僕は……君が何を想い、何を考え、どういう理由でいなくなったのかは分からない。僕は友達だといいながら、君の事を理解できなかった自分自身に腹が立つ。今更になって君のことが知りたくなった自分の欲を醜いとさえ感じている」
けど――、
「だからこそ、僕は君が消えた理由を知りたいんだ。この闇の正体を知りたいんだ。東京を狂わせ続けている闇。君はその正体に気づきかけていたんだろう? だからこそ、いなくなったんだ。僕に迷惑をかけないように。二度と日常には戻れないと覚悟しながら、それでいて僕には心配をかけさせまいと、君はいつもどおり僕に微笑みかけてくれたんだ」
あの日、一週間前。彼女が消える前日、彼女の言葉を思い出す。
――もしも、もしもだよ。私が君の前から突然いなくなるようなことがあったとしても。
何かを決意したような横顔。見慣れたはずのその笑顔が、僕はなぜか悲しく見えたのだ。
――君は君のままで、変わらずに毎日を過ごしてくれるかい? ――葉流(はる)。
そう言って、君は僕の前から消えた。
一週間前に。
「そんなこと、できるはずがないじゃないか! 君といる毎日が僕の日常だったんだ。君がいなくなった今、僕が以前と変わらずに生活できるわけがないんだ……!」
洗脳されかけた理性を現実に戻し、ただ一人の友人を探して黒宮葉流(くろみや はる)は歩き出す。
この先に那生へと続く道があるのだと信じて――。
「――!」
悪寒が走る。突如として辺りの空気が変異したのだ。
不気味な、吐き気がする闇から、おぞましいほど底のない泥沼のような闇に、
世界が一変した。
「――あ、あ……」
僕はその恐怖に耐え切れず疾走した。
脇目も振らず、ただ闇から逃避するように夜の東京を駆ける。
冬に至ろうとする肌寒さは、『何か』に監視されているような寒気となって容赦なく僕に突き刺さる。
針で刺されているような生易しい苦痛ではない。
槍で全身を穿たれているような激痛だ。
小動物ならたやすく射殺せてしまえそうな視線。
気配はしないのに、確かにそこにいる『何か』の視線を僕は感じていた。
「気味が悪いのを通り越して、目眩がするな。……これは」
振り払おうにも執拗に追いかけてくるそれはいささか奇妙だった。
追いかけているはずなのに、追いつこうとしていない。
かといって、懸命に駆けている僕を決して逃がしてはくれないのだ。
つかず離れずの距離を保っているこれは……。
「もしかして、誘導されている?」
気づいたときには遅かった。
静かだけれど人がいる住宅街を抜け、オフィス街をかわし、ポツリと穴を開けたそこは。
深緑が人気を博している、やけに面積だけはある自然公園だった。
昼間は子供からお年寄りまで幅広い年齢層が愛用している公園だが、夜に使用しているものなど皆無だ。特に失踪率が高い渋谷ならなおさら、今この場所に葉流以外の人間などいはしないし、そんな命知らずな人間は葉流以外にいるはずがなかった。
完全に、ハメられた。
「ウソだよね……」
なぜこうなるまで気がつけなかった?
否。気がつけなかったのではない。
追われているものに気がつかないように、『何か』は巧みに誘導していたのだ。
姿が見えない『何か』の知能の高さに僕は戦慄した。
逃げることしかできなかった僕より、相手が一枚も二枚も上手だった。
それだけの話なのに、僕はその不可思議さの正体を探っていた。
「これは、一体……?」
僕が思考の泥沼にはまっていたその時、『何か』は正体を現した。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ――――――。
這いずるような、引きずるような音と共に闇の中から姿を現したのは、それまた『闇』だった。
しかし、夜の闇とは明らかに別物だった。
ただ無限に広がっている無秩序な闇と違って、それは『個』という秩序を持った具現化した闇だ。黒い塊と表現したほうが分かりやすいだろう。スライムを漆黒に染め上げたような『闇』は形状を多様に変化させながら、より現実に依存するために『個』を明確にしていく。
同じ闇色の中にいるはずなのに、『闇』は闇に霞むことなく『個』としてそこに存在している。それは背景としての闇の中に、存在としての形を持っているから。存在意義が異なるのだから、溶け込まないのは必然である。
ズズズ――と、『闇』が完全に現界した時、僕の震えは最高潮に達していた。
「…………!」
声すら出ない。
アレから目が離せない。
体は時が止まったように動かなくなり、かわって心音だけが時間の経過をリアルに教えてくれている。
……ドクン…………ドクン………………ドクン…………………………ドクン――――。
五分だったかもしれないし、十分以上そうしていたかもしれない棒立ちは、『闇』の消失によって唐突に終わりを告げた。
「な――!」
『闇』が消えた。
違う。僕の真上へと跳躍しただけだ。
『闇』が空に浮かぶ月と重なる。
月光が『闇』を透かし、僕に警告していた。
避けろ――と。
「うわっ!」
僕は凝固していた体を無理やりひねると、勢いに任せて後方へと飛びのいた。
「つあっ……!」
慣れない行動に着地が上手くいかず、尻餅をついてしまった。
痛む体を無視して、僕はその物体を直視した。
「――――」
そこにいる『闇』からは何も感じられなかった。
敵意も殺意も悪意も、些細な感情の変化すら感じられない、虚無の塊。
闇なのだからそれも当たり前なのかもしれない。
しかし、最低でも僕には、何も感じられない『闇』に違和感を覚えたのだ。
ユラユラ揺れる『闇』は、再び僕へと飛び掛ろうとする。
消される――。
――即座に直感した。
夜の東京からは人が消える。
その原因こそが、この『闇』だったのだ。
なぜこんなものが存在しているのかは分からない。
が、人が消失したのは『闇』によるものだと、僕はその肌で感じ取っていた。
消される。
『闇』が行動に出れば、非力な僕などあっさりと無にできるだろう。
消される。
そんなことがあってたまるか……!
僕は何も、自ら消されにやってきたわけではない。
意味もなく危険な場所に足を踏み入れたわけではない!
「那生」
友人である少女の後姿が目に浮かぶ。
彼女を探すと決めた。
彼女が見つけ出そうとしていた物に、たどり着いて見せると決意した。
その決意を――、
「消すわけにはいかない!」
すぐさま横に跳躍した。
『闇』の突進を辛くもかわしたが、僕の眼には別のものが映りこんできた。
「おい、ウソだろ……!」
横に避けた先にいたのは、今しがた僕に突進してきた『闇』とは別の『闇』
二体目がいたのか――。
間に合わない。
二体目は間抜けにも自分に飛び込んでくる僕を待ち受けていた。
まずい――!
このままでは『闇』と正面衝突してしまう。だが、体重を乗せて跳んだ手前体勢が傾いていて急な方向転換ができない。
「僕は――」
消されてしまうのか?
こんなにも簡単に、取りとめもない話のように、無価値に、何もしないまま。
大切な人の足跡すらたどれずに。
「――――」
僕は一瞬眼を瞑ってしまった。
恐怖からだろう。自分が消されようとする瞬間を見ないように眼を瞑った。
しかし何も起きない。
消されるのだから、痛いとか苦しいとかはないのかもしれないが、これはあまりにも静か過ぎた。
「――オマエ、何をボーっとしている」
柔らかな、しかし荒々しい声が聞こえた。
「――え?」
僕はいつの間にか地面にひざまずいていた。
顔を上げる。
最初に眼に入ったのは禍々しいばかりの光を放つ、死神が持っていそうな大鎌。
が、それよりも鮮烈だったのは大鎌を持つ少女の顔だった。
絵画のようなまとまった顔立ち。
綺麗な部品が集まったのではなく、一つの美として体現したような顔だった。
鋭い目つきも、引き締まった唇も、絹のようにしなやかな肩までの髪も。
すべてが彼女のためだけに用意された代物のように思えた。
思わず見とれる。
月の綺麗な夜だった。
夜の闇を照らす月の下。
僕と彼女は出会った。
……Next 第一夜 追憶一